1986年9月20日。ひとりの日本人旅行者が、ブラジル領アマゾンの奥地で失踪しました。
その人の名は藤川辰雄、70歳。僧籍があり、伊豆大島富士見観音堂の堂守という肩書きを持っていました。
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| アマゾン・パリンチンスの墓地での死者供養の行事。かつて藤川氏もこの光景を見て、亡くなった日本移民への読経を捧げた。 |
藤川氏は、アマゾンで亡くなった日本人移民の無縁仏を供養する巡礼の旅を続けていたのです。その日もアマゾンの支流の河岸でひとり、読経を行なっていました。昼頃、藤川氏とみられる人が川に入っていくのを見かけた現地人がいました。その後、藤川氏の姿はどこにも見当たらず、遺体も上がりませんでした。地元の警察は藤川氏が読経の途中に川で水浴をした際に溺れてしまい、遺体はピラニアなどの猛魚に食べ尽されてしまったものと判断しました。
藤川さんが最後の巡礼の旅を続けていた同じ時期に、私は日本のドキュメンタリー番組制作会社のディレクターとしてブラジルに派遣され、アマゾン各地の取材を行なっていたのです。日本テレビの「すばらしい世界旅行」というシリーズで放送されたその番組には、こんなタイトルが付けられました。「アマゾンをさすらう」。
私はこの取材を最後に、取材を通して惚れ込んでしまったブラジルに、一移民として移り住むことを決意したのです。自分で納得できるドキュメンタリーのあり方を求めていたものの、何の当てもありませんでした。
当時の私は、藤川さんのことも失踪事件のことも知りませんでした。ブラジル移民となった私は、自分はディレクター、撮影はカメラマン、その他に通訳兼助手といったチームでの取材ではなく、小型ビデオカメラを使って取材のすべてをひとりで行なうスタイルに賭けてみることにしました。
取材のテーマは、次第に中南米の日本人移民に絞られていきました。
およそ10年前、ほぼ同時期にふたりの人から藤川さんの話を聞きました。
生涯を日本移民のために尽くし、最後は命までも投げ出しながら、移民の「正史」には取り上げられることもない日本人。
私は自ら移民となった記録映像作家として、この人のことをもっと知りたい、伝えたい、と思ったのです。
藤川辰雄さんは山口県の現・山陽小野田市の出身。日本語教師となり、日本支配下の中国で日本人学校の教師もしています。
戦後、同郷の代議士・田中龍夫が会長を務めた日本海外移住家族会連合会の初代事務局長の職を得ました。移住者を送り出した日本の家族と、現地の移住者双方の便宜を図ることを目的とした民間団体でした。
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| 藤川氏が伊豆大島・三原山の中腹に建立した富士見観音像。 |
1965年、初めて中南米を視察した藤川事務局長は、杜撰な移住政策の犠牲となった移住者たちの苦境を目の当たりにします。ひとりでも多くの同胞を救いたい、と願った藤川さんは日本で実情と移住者救済策を訴え続けたため、関係当局からは疎まれ続けます。
その後も現地訪問を繰り返した藤川さんは、多くの移民たちの墓が無縁仏となって荒れるに任され、場所もわからなくなっていることに心を痛めました。自ら供養を行なおうと高野山で得度、さらに日本でも海外移民の霊を慰めようと事務局長の職を辞し、私財を投げ打って伊豆大島に富士見観音堂を建立、1978年に自ら移り住んだのでした。
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| 伊豆大島観音像の前での筆者。小型ビデオカメラを担いで日本と南米の往復を重ねる。 |
藤川さんゆかりの人と場所を訪ねる私の取材は、ブラジルと日本を往復しながらアマゾン各地、故郷山口、伊豆大島等々を繰り返し訪問することになりました。
まずはいったんまとめ上げるまでに一昨年まで9年の歳月をかけ、5時間15分におよぶドキュメンタリー「アマゾンの読経」全3巻を完成しました。
その後、アマゾンやパラグアイを訪問して新たに知りえたことも盛り込み、藤川さんの没後20年を祈念して今回、日本で改訂版を完成させました。
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| サンパウロ州・スザノ金剛寺にはブラジル富士見観音像がある。藤川氏がアマゾンでの失踪の年に建立した。 |
そして20年目の命日に、すでに無住となって久しい伊豆大島の富士見観音堂で「アマゾンの読経」の上映を行なったのです。藤川さんが最期の旅に出るまで、8年にわたって読経を続けた仏間にスクリーンを張っての奉納上映です。
日本各地から有志が集い、地元の人と共にしめやかに供養を執り行いました。ここにこれだけの人が集ったのは富士見観音像の開眼式以来のことでしょう。
「ここを、若者たちが自由に集う場所にしたい」。私は藤川さんの残したそんな言葉をかみ締めていました。
「移住」や「移民」をうたうミュージアムからは省みられることもなく、削ぎ落とされた人々の想い。華やかな式典とは無縁な人たちの、夢、そして怒り。
私のビデオカメラにそれらを託してくれた人々、さらにこうした上映を可能にしてくださった方々の新たな想いを糧としながら、今後も映像巡礼を続けていく決意を新たにしました。
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